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犬じゃなくて猫

米津玄師というヒーロー

 #第2回バンド愛天下一武闘会 で、米津玄師の特集をしたので、米津玄師の話をします。

 

 

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 いろんな人に「バクホンじゃないの?」って言われたけど、バクホンは前回の天下一でやったので、別のバンドをやりたいと思っていろいろ候補を出した。

 フラッドとかピロウズとかアーバンギャルドとかamazasahiとか考えたんだけど、その当時「やっぱ米津玄師はヤベエ」と思ってたド真ん中だったので、米津玄師そしてハチで出ることに。

 

 

 私は今年25歳なんだけど、同世代でネットカルチャー、特にニコニコによく触れてた人には「ハチ」という存在はめちゃくちゃでかいと思う。

 ちょうどパンダヒーローとかマトリョシカとかの頃に高校生だったから、オタクしてた人は誰でも一度は、いや一度と言わず何十回もカラオケで歌ったんじゃないかしら。

 初めて聴いたのはマトリョシカだったと思うんだけど、そりゃもうビックリした。良いとか悪いとかではなくビックリした。こすもたんとかデPとかwowakaとかで所謂「ボカロ的」な、クレイジーで情報量の多い音楽というものに慣れていても、あの変な音の洪水となんだかよくわからん歌詞と不穏なメロディーラインと何が起こってるのかわからんリズムと全然媚びてこないボカロの調声に度肝を抜かれた。すごい個性的で、すごいソリッドで、すごいかっこいい。中高生の感性ド真ん中。好きにならんはずがない。

 ある意味それもそのはず、なんと彼は1991年生まれなので、2010年投稿のマトリョシカは19歳の時に作った曲。若いので若い感性に刺さる曲が作れるわけである。若いオタクは総じて速い曲が好きだし。

 

 

 ハチいいよね~とオタク仲間と語り合う私はやがてハチが本名名義で曲を出し始めたことを知る。

 あの当時はそんなに積極的に音楽を掘ってなかったので、初邂逅は音ゲーのmaimaiに入ってたゴーゴー幽霊船だった。私はもともと音ゲークラスタbeatmaniaIIDXとかポップンとかをメインでやってたんだけど、友達がmaimaiをやってるのをぼんやり見てて、彼女が選曲したゴーゴー幽霊船が筐体から流れ出すなり、またしても衝撃を受けたのである。

 今はどうかわからないけどmaimaiは打鍵音がうるさいので、曲がよく聴こえなかったことを残念に思ったことを覚えている。帰って即YouTubeで聴いた。またしてもビックリした。マジで「ワ~!!」って言った。こりゃ360度どこから聴いてもハチだ。言ってしまえば素っ頓狂なくらいヘンテコなのにめちゃくちゃかっこいい。当時もうすでに私は大学生になってたけど、大学生の感性に刺さる曲だった。速すぎない(いやBPM190くらいあるから速いんだけど)テンポと早口すぎず難解すぎない歌詞、面白すぎないメロディーライン。それはたぶん彼自身の成長に伴う感性の変化によってもたらされたものだと思うけど、ハチを聴いてたかつてのオタク高校生たちにもたぶんめちゃくちゃジャストフィットだった。つまり彼はそのエッセンスを保ったままアップデートしているのだ。本当に自分の感性や感覚をそのまま絵に描くように音楽にできる人なのだ。

 MAD HEAD LOVE/ポッピンアパシーとかもう最高だった。ちょっと大人になったマトリョシカって感じだ。「人を食ったような曲」といえば伝わるだろうか? 聴いてるとめちゃくちゃ何かをはぐらかされてる感じになる戯け倒した曲だ。でもかっこいい。やっぱ米津玄師ってハチなんだと思った。高校生のときのヒーローが大学生になっても変わらずヒーローでいてくれることの心地よさに完全にがっちり鷲掴みにされた。安心感とも言える。好きな作家のめちゃくちゃ分厚い小説を読んでて、まだこんなにページがある、これが終わってもまだシリーズの他の巻がある、と思うときに似ている。好きなものに触れたときの幸せな気持ちを昔も今もこれからも約束されたような、とても安心する感覚だ。

 

 

 しかもサイコーなことに、なんと社会人になった今でも米津玄師は私のヒーローである。

 いつまで経ってもどこかヘンテコでソリッドでかっこいい、感性にぶっ刺さる曲しか出してくれない。社会人になり、バラードとかが沁みてくるようになった私の耳に突然投下されたLemonの衝撃をわかってもらえるだろうか? 職場でラジオがかかっているので初めて聴いたのは職場だったけど、仕事の手が止めてしまうくらいだった。震えた。この人は永遠に、よもや永遠にヒーローなのではないかと思ってしまった。

 

 

 ところで散々米津玄師の音楽の外側的な話をしたけれど、もちろん歌詞の話もしたい。

 米津玄師の曲の歌詞は「繋がれない悲しさ」に満ちている。それは社会だったり、大切な人だったり、成功だったり、自分の理想だったりする。世界から、世界から世界と呼ばれているものからの疎外感。孤独感。それはたぶん比較的不変の感覚だと思っていて、思春期にそれを強く感じていた人は、大人になってそんなに気負わずに、暗黙の了解的に繋がれることを知ってもなお、心のどこかにそれを抱えている気がする。感じ方でなくて捉え方なのだ。繋がっている幸福感や安心感と、疎外感や孤独感はまた別の次元にあって、たまに両立したりする。その根っこの感情に、米津玄師の言葉は訴えかけてくる。あのメロディーラインやリズムに乗って刺してくる。沁みてくる。忘れていたあの感覚や、実は今感じているあの感覚を呼び覚ます。

 米津玄師の言葉はあまりこちらに寄り添わない。俺はこう感じてる、俺はこう思うとただ主張しているだけで、こうだよね、わかるよ、というスタンスではない。その距離感がとても心地よいのだ。それは直接的な関わりではなく、私たちは米津玄師と繋がらない。けれど同じ気持ちでそこにいるのだ。虚しさや悔しさや寂しさや悲しさを感じているということを共通項にして。

 

 

 米津玄師は曲を全部自分1人で作っているという話は有名だけど、それによってひとつひとつの曲に彼の呼吸が込められている気がする。不純物のない彼の心の一部。それに触れて私たちは自分の心を再確認し、もうちょっとやってみようかなという気持ちになったり、暗い気持ちを紛らわせたりする。助けに来てはくれないけど、存在していることそれ自体が安心になるヒーローなのだ。

 

 

 最後に米津玄師で一番好きな曲の話をしようと思ったけど、語りつくせないので曲名だけ書く。「vivi」。聴いたことない人は各自聴いて。あと「花に嵐」もサイコー。

「エモい」という種類の感情

 「エモい」という表現が嫌いな人が結構いた。

 そういう人たちがいることは知っていたけど、自分の身の回りにわりと多くいたことに本気で驚いた。何故なら私はことあるごとに曲やバンドに「エモい」と言うし、そのように「エモい」と言うとき、その意図と意味をちゃんとそれを見聞きする人にはわかってもらえていると思っていたからだ。

 

 

 私はTwitterでこんなことを言った。

 

 頂いた言葉を総括するとだいたいこうなる。

 ≪「エモい」という表現はその曲やバンドが与える感動や魂の揺さぶりを軽々しく扱うものであり、それを緻密に表現して伝えることを放棄し、思考を停止している様である≫

 

 

 ところが、私にはそのようなつもりは毛頭ない。

 軽々しく表現しているつもりもないし、思考を停止しているつもりもない。

 いや、思考停止はちょっとあるかもしれない。何せこの感情を果たして本当に言葉で表現しきれる人がこの世にどのくらいいるのか?

 たとえば、くだんのツイートで私が話題にしたthe pillowsの「サード アイ」という曲がある。私はこの曲をものすごくエモいと思っている。

 頑張って思考を停止せずにできるかぎり表現してみよう。ギターのみのシンプルなリフから一気にバンドインするイントロはあたかも「3番目の目」が開いたまさにその瞬間のようで、ながら聴きをしていても一瞬で意識を耳に奪われる。始まるメロディはまさに今、ここで話題にしている「それ」である。私はまったく音楽理論には詳しくないのでこれがどういうコード進行なのかわからないんだけども、胸を掻き毟られるような切なさと、それでいて前へ前へと危なっかしいまでに突き進む無謀な勇猛さを感じて、呼吸をするのを忘れたように息がつまる。疾走しているのにも似ているし、高いところから地面を見下ろしたときの優越感と恐怖が入り混じったような胸の動悸にも感じる。その曲調の上を荒くすべるさわおのボーカルがある。切ない。切ないが大人しくない。何かを振り切って頑なに前を向こうとする、立ち止まっていた場所から前に進み始めている人間の躊躇いや苦悩、そしてほんの少しの新しい世界への期待を感じる。絶対に今度こそ何かを掴んでやると奮い立つ情熱が静かに燃えている。

 そして歌詞がある。もはや曲調と歌声だけで既に完成していると言っても過言でないこの曲に、内向的なのに前のめりな少年らしさの滲む言葉がさらに意味と物語を与えている。この曲調と歌声が乗った「もう一度何かを始められそうなんだ」にまさる音や言葉が他にあるだろうか?……

 

 

 ところで、ここまでちゃんと読み飛ばさずにいてくれた人はどのくらいいただろう?

 サード アイを知っている人や好きな人、またthe pillowsを知っている人や好きな人は読んでくれたかもしれないが、知らない人はまず間違いなく読み飛ばしたはずだ。

 理由は明白である。長すぎるからだ。自分の知らないものについて長く、しかも熱心に語っている文章ほど退屈なものはない。よほどの文章力や表現力があればその限りではないが、少なくとも私にそこまでの力はない。

 つまり、私のこのサード アイを聴くたびに感じるこの何にも代え難い感情をどれだけ出来る限り克明に表現したとしても、サード アイを知らない人にはほとんど伝わらない。むしろ熱心に語れば語るほど、初期段階で興味がない人は敬遠するだろう。

 私はこの曲が大好きで、知らない人がいたら聴いてほしいし、この感情を共有したいと思っている。しかし、まだこの曲を知らない人にはあまりにもこの情報は濃すぎる。

 もっと大きな枠で気取らずに語ったっていいはずだ。警戒させないのはコミュニケーションの基本である。

 

 

 しかも、これはこの感情の表現として不十分だ。

 これは「エモい」の言い換えではない。「どのようにエモいのか」の付加情報だからである。

 「エモい」の意味するところが「胸を掻き毟られるような切なさと、それでいて前へ前へと危なっかしいまでに突き進む無謀な勇猛さを感じて……」なのではない。「胸を掻き毟られるような切なさと、それでいて前へ前へと危なっかしいまでに突き進む無謀な勇猛さを感じて……」エモい、のである。

 あなたはそうではないかもしれない。であればやはり、私を思考を放棄した猿だと思うかもしれない。

 しかし私は「悲しい」とか「嬉しい」とかと同じように「エモい」を感じるのである。

 「嬉しい」ことを「嬉しい」と表現したら思考停止だろうか。そういう向きもあるだろう。どのように嬉しいのか、何が嬉しいのかをしっかりと考えて表現することも、より深く伝えるためには大切なことではある。しかし理由や対象はあくまで付加情報であり、「嬉しい」という感情は「嬉しい」という感情でしかないはずだ。

 「エモい」もそうだ。「エモい」を不快に思うなら「エモーショナルである」と言ってもいい。「エモい」は「エモーショナルである」の短縮形(若者言葉)であるはずだから、ここだけは唯一イコールで結べるだろう。「エモい」はこれ以上細かくできない。「エモい」という種類の感情なのだ。私はそう思う。

 

 

 であれば、問題になるのは目的だけである。

 何かの魅力は「できるだけ簡潔にわかりやすく伝える」ことが大事だと思っている。あるいは誰かとその魅力をその瞬間に分かち合うときにも。

 ちゃんとした場で説明するときや(たとえばディスクレビューとか……)、愛好家同士で深く語り合うなら「エモい」の一言で済ませてはならないだろう。サード アイをカラオケで完璧に歌い上げる人に出会ったらわざわざエモいなんて言わない。そんなことはわかりきっていることだからだ。それこそその魅力について長々と演説を打つべきで、私もできればそうしたい。

 

 

 the pillowsサード アイ、フラワーカンパニーズの深夜高速、サカナクションアルクアラウンド、スピッツの俺の赤い星、THE BACK HORNの赤眼の路上、amazasahiのアポロジー、ACIDMANのFREE STAR、BLANKEY JET CITY赤いタンバリン、THE HIGH LOWSの14歳、ウルフルズのサムライソウル、04 Limited Sazabysのswim、LiSAのRising Hopesupercell君の知らない物語、全部エモい。全部めちゃくちゃ大好きだ。これらの曲の最大公約数が「エモい」なのだ。「アツい」とか「グッとくる」では少しずつ「ちょっと違う」気がする曲がある。「魂を揺さぶられる」では肩肘を張っている感じがする。「エモい」「エモーショナル」こそがドンピシャに感じるのだ。

 だからこれらの言い換えとして「エモい」以外の言葉があるなら知りたかった。「エモい」を嫌う人がいることを知っているので、このニュアンスをそういう人たちがどう言い換えているのか知りたかったのだ。もっと普遍的に語る手段として。

 そもそも十把一絡げに語ろうとするのが間違いだと思う人もいるかもしれないけど、それでも「こういう曲」の魅力をたくさんの人と分かち合っていきたいと思うし、「エモい」という表現をこれからもきっと使うだろう。

 

 

 

 でも「エモい」が嫌いだという人の気持ちはもちろん否定しないので、これからはちょっと慎みます。